名古屋市長の河村市長が、当地を訪れた友好都市の中国南京市の代表団に述べた「南京事件はなかった」という発言は、名古屋と南京の交流中止に発展した。
河村市長は、この勇気ある発言を断固貫き、この際ぜひ中国や南京市に公開討論会を申し込んでほしい(その時は、私も「参戦」しよう)。
(おそらく公開討論会を彼らは拒否するだろうけど)
河村市長は、就任時にも「南京虐殺はイリュージョン(幻想)」と発言しているが、それは事実をよく踏まえると正しい発言だ。
まず、「南京事件」なるものが、初めて!国際社会で取り上げられたのは、それが起きたとされている1937~38年ではなく、それから9年もたった日本敗戦後の東京裁判の時だ。それまでは、ごく少数の戦争宣伝を除けば、次の歴史文書が示すように全くと言っていいほど国際社会には登場しない。30万人も虐殺されたなら、当時から大問題になってなければおかしい。
南京は当時の中国の首都。日本の南京占領時にもたくさんの外国人記者がいたのだから。
次に、国民党政府国際問題研究所監修の1939年発行の「南京安全区公文書集」(Documents of the Nanking Safety Zone)によれば、日本軍が南京を占領した1937年12月における南京の人口は約20万人だが、それから1ヶ月後の38年1月14日の人口は約25万人と記されている。虐殺が行なわれたとされているのに、人口は減るどころか増えている。それは、日本軍が市内の治安を保っていることがわかって、逃げた人口が戻ってきたことを示しているのではないか。これは当時の中国側の資料だ。
また、台湾の台北にある国民党党史館に納められている「国民党宣伝部国際宣伝工作概要1938~1941」の記載は、日本が南京占領する1937年12月1日から1938年10月24日までの11ヶ月間に漢口で300回にもわたって、国民党による外国人記者会見が行なわれたが、ただの一度も南京での虐殺に触れられていない。南京で日本軍による虐殺があれば、触れないのはおかしい。
さらに、当時の在日米国大使館付武官であったキャボット・コーヴィルが、1938年5月2日に本国に送った「南京調査報告」では、次のように記載している。
「南京の安全区は幾分とるに足らない問題もあったが、(日本軍は)ほぼ満点の配置だった。それとは対照的に大事なことは、中国兵が安全区を尊重しなかったことだ。多くは軍服を脱ぎ捨て安全区に避難した」
当時も今も、軍服を脱いだ軍人は、国際法の保護を受けない。軍人が捕虜として保護を受けられるのは、きちっと軍服を着ている場合であり、そうでない場合不審な行動をとれば射殺されてもやむを得ないのだ。
「南京事件」なるものが、初めて国際社会に登場したのは、1946年から始まった東京裁判である。その時に「証拠」として提出された写真は、東中野修道氏の研究によってすべて証拠能力がないと証明されている。
戦争は武力だけでなく、「相手が悪い」という宣伝戦を展開するものだ。特に孫子の国のシナ民族は、これが得意だ。東中野氏が証明したこれらの写真は、ほとんどすべてが戦争中日本軍の「蛮行」を印象づけるためにつくられた偽造写真のたぐいで、これらの写真が南京の「虐殺記念館」に飾られている。
米国は、広島と長崎に原爆を落とし、また無防備の日本の諸都市に焼夷弾の雨を降らして、多くの民間人を「虐殺」した。これは明らかな国際法違反のホロコーストだった。負い目のある米国は、日本もヒットラーと同じように裁くために日本軍による「虐殺」を探そうとして、当時ほんの一部で宣伝工作として使われていた「南京事件」を東京裁判に持ち込んだのだと考えられる。
今年は「南京事件」から70年の年だ。昨年中国では、「南京事件」をテーマにした「The Flowers of War」という映画が公開され、おぞましい日本軍の「蛮行」シーンに観客が憤慨したという。この映画はこの4月から世界で上映されることになる。
中国が80億円もの資金を投入し、中国人の有名監督がハリウッドの有名俳優を使ってつくった国策映画だろうが、ハリウッドの評価は最悪のようだ。しかし、歴史はこうやってねつ造されていく。
日本政府が手をこまねいて傍観していてはならいない。
どこかの国は、ことあるごとに「歴史を直視しろ」と言うが、そろそろ事実と証拠に基づいて「歴史を直視」すべきだ。河村発言がそのきっかけになればいい。