今日で東日本大震災から2年たちました。
あの日は金曜日。
私は都内にいましたが、まずドンというたての揺れのあと、すぐ経験したことのない大きなよこ揺れがかなり長く続きました。
初めてと言っていいくらいの大きな地震の揺れだったので、すぐテレビをつけて、食い入るように画面を観ていました。
都内のあるビルから煙が上がっているニュース。
震源地に近い東北地域では津波警報が出されていましたが、確か高い予想でも2mとか3mとかと記憶しています。
じっとテレビの画面を観ていたら、突然東北の各地域の海岸からどんどん津波が内陸の家や車や田んぼを飲み込んでいくのが映し出され、言葉を失いました。
「これは、大変なことになった・・・・・。」
都内においても、交通網が遮断され、多くの方が帰宅困難者となりました。
その後、テレビニュースで、未曽有の被害がもたらされたことを知り、愕然となりました。
私はすぐ行動に移しました。
当時、私は、日本創新党党首であり、首長ネットワークの「日本を創新する会」のメンバーでした。
私たちは、これまでの首長ネットワークを活かし、被災地の首長の方々から必要な物資を正確にお聞きし、被災地に届ける活動を始めました。
「必要なものを、必要なだけ、必要な時に、直接届ける」。
この原則のもと、3月16日の茨城県高萩市を皮切りに、北茨城市、ひたちなか市、そして大洗町。福島県白河市、宮城県塩竈市、多賀城市。
宮城県気仙沼市、南三陸町。
福島県南相馬市、と、4月5日までに計4回、被災地に入りました。
被災地は、どこも想像を絶する状況でした。
家や建物は跡形がなく、橋脚は落ち、道路が寸断され、津波で町の中心部すらそっくりなくなってしまっている被災地にたたずみ、「一体ここで何が起きたんだ」と、茫然自失、言葉を失いました。
しかし、この厳しい状況にもかかわらず「自分たちより、この先の町で灯油が足らないはずだからそちらに届けてください」という言葉や、
ひとつのおにぎりを分け合う姿を目の当たりにし、市井の日本人の崇高な心のありように頭が下がると共に、希望も見出しました。
日本は必ず復興できると。
そして、帰路の車中から見たガレキの山を照らしていた満月に私は誓いました。
日本を必ず復興させると。
多くのボランティアの皆さんや支援者の方々のおかげで、微力ではありましたが精いっぱいの活動ができました。
しかしこの2年、なかなか復興が進まない状況にもどかしさや憤りを感じてまいりました。
今、私は国会議員として、この経験を生かし、被災地の方々への支援政策に積極的に取り組んでいます。
党派を超えて、同志議員とともに、復興のスピードを加速させていきます。