英連邦会議の行われたヨハネスブルグは、南アフリカの内陸部にある「商都」、ビジネスの中心地。首都はヨハネスブルグから車で1時間弱にあるプレトリアで、ここに大統領府などの行政機関がある。だが国民議会はプレトリアから飛行機で2時間のケープタウンという海岸部(近くに喜望峰がある)だ。このようなバラバラな配置となったのは、部族間やボーア戦争(英国とオランダ系混血現地人の戦い)の影響でバランスをとったと言う。
人口は日本の半分の5千万人、白人が15%、黒人を中心とした有色人種は85%で、面積は日本の3倍の国だ。ちなみに1994年まで続いた白人支配のアパルトヘイト(人種隔離政策)では、日本人は南アフリカとの経済的関係から有色人種ではなく、白人並の待遇を受ける「名誉白人」として扱われ、非常に屈辱的なことだった。
私は空港とヨハネスブルグとプレトリアを行き来しただけだったが、車から眺める景色はまさにロスアンジェルスと変わらない「アメリカ」の風景で、思い描いた「アフリカ」は時々広がる荒野(サバンナ)だけだ。南アフリカもアメリカも、18世紀の同じ時期にヨーロッパ人によって開発されていったからか。南アフリカの一人当たりのGDPは約8千ドル(日本は4万5千ドル)でまあまあのように思えるが、黒人だけでみると約千ドルにも満たないという。まだまだ白人と黒人の経済格差は大きい。
南アフリカの最大の課題は、資源を売って稼ぐ「資源国経済」から、資源を加工して稼ぐ「加工貿易国」に変わることだ。南アフリカは鉄鉱石、石炭、金、ダイヤモンド、希少金属など豊富な資源に恵まれている。石油は出ないが、これまでは資源を海外に売ることで食っていけたので、なかなか加工産業が育たなかった。しかしこれからさらに豊かになるためには加工産業を伸ばさなければならない。それとともに遅れている鉄道や道路や港湾などのインフラ整備も進めなければならない。日本に対して期待されるのもそこだ。最近は中国の参入も著しいものがあり、わが国もしのぎを削る。これはアフリカ全体、至る所で起きている。
南アフリカで二人の国会議員と会い、お二人ともかなり日本に好意と期待を寄せていたが、日系企業は多く進出していても、南アフリカにしっかりしたパイプをもつ日本の政治家はいないようだ。確かに「日本アフリカ友好議連」のようなアフリカ全体を対象とする議員連盟は存在するが、アフリカと一言で言っても、南北、東西の距離はほぼユーラシア大陸と同じだ。アフリカをひとくくりすることは無理がある。せめていくつかの重要度の高い国ごとに政治家のパイプづくりをしていく必要があるのではないかと思う。
しかし地味ではあるが、長年に築き上げてきた両国の協力のすばらしい証しに出会うことができた。
それは、アパルトヘイト時代の黒人居住区のひとつソエトの中にある「オルランド子供園」という孤児院だ。現地の日本大使館は長年にわたって、この孤児院を地道に物心両面で支援し、また孤児院の創立者であるマジプコ園長も長く日本との交流の橋渡しをされてきた。ここには小泉純一郎氏が厚生大臣時代にハーモニカを寄贈し、その何年後に総理としてここを訪ねた時に、そのハーモニカで子供たちが歓迎してくれたことに涙したこともあったと聞いた。小泉氏だけでなく、多くの日本人がここを訪ね、それぞれの方法で交流を重ねてきた場所だ。
この孤児院の子供は、85%が何らかの事情で親が手放した子供で、15%は親がエイズ等で亡くなった子供だそうだ。子供たちのキラキラした大きな目を見ていると、本当にやるせない悲しい気持ちになるが、園長先生を始めとした保母さんたちの献身的な努力で立派に育って欲しいと願わずにはいられない。
ちなみに、私がこの施設を訪ねた日に、マジプコ園長に日本から旭日双光章の今秋の叙勲が決まったというニュースが飛び込んできた。本当におめでとうございます。