●来夏の参議院議員選挙に自民党より「全国区」で出馬するにあたってのインタビューを掲載いたします。
-山田宏さんが自民党から出馬する報道がありましたが、どのような決意ですか?
この度私は、来夏の参議院選挙「全国区」に、自民党公認で出馬することになりました。昨年の12月の落選以来、安倍総理からのご要請もあり、又、次世代の党の皆さんのご理解も得て、「国の役に立つには、今はこの道がベスト」と決断しました。
安倍総理とは、国家観、歴史観をほぼ同じくしてきました。ですから私は、日本維新の会、次世代の党の衆議院議員として、立場は違っても、「日本をよくする」という共通の思いで、安倍政権と向き合って参りました。
予算委員会では、日本の誇りを取り戻すため慰安婦問題などの「歴史問題」のみならず、アベノミクスの柱である規制緩和の徹底、とりわけ農業分野や医療分野の「開放」を求め、さらに安全保障の問題など、自民党内ではまとまりにくい問題についても、あえて総理の背中を押すような質問をしてきました。そして自民党より一歩先に立った私の質問に対して、時に総理の「同感だ」との答弁で、必要な政策をスピード感をもって前進させることもできたと自負しています。
-次世代の党との関係はどのようになりますか?
実は昨年12月の落選直後より、安倍総理から「自民党の中で、一緒に国の難局に取り組んでほしい」とのお話がありました。
もちろん即答できたわけではありません。次世代の党の涙を飲んだ前議員の方々から、様々な相談を受けていたことものあり、その責任もありました。そして、次世代の党の党員資格が切れた8月に、初めて党幹部の皆さんに相談したところ、中山恭子代表をはじめ皆さんから、
「あなたには何としても早く国会に戻ってもらい、国のために尽くしてほしい」、
「次世代の党と自民党との橋渡し役になってほしい。一緒に日本を正しい方向に引っ張っていきましょう」との励ましをいただきました。
-山田さんはこれまで、改革保守の政党を作る挑戦をされてきたわけですが?
これまで私は、卒塾した松下政経塾の第二期生として、故松下幸之助翁の思いを胸に、自民党ではない改革保守の政党を作り、保守二党による政権交代が行われることを目指して、何度も新たな挑戦をしてきました。なぜなら「業界団体依存の自民党では改革はできない」と考えてきたからです。
かたや、労働組合頼りの野党の中で改革保守の政党を新たに作ることなど夢のまた夢です。そして、今のままの業界べったり、組合べったりの議員が数多く占める参議院では、大所高所に立って国家の行く末を論じる「良識の府」には絶対になり得ません。次の当選など度外視して、時に業界や組合の利益に反してでも、国のために正しいことをきちっと発言し行動していくことのできる議員こそ、参議院には必要です。今般の安保法制を巡る大混乱を見て、私はさらにその意を強くしました。
「内憂外患の今だからこそ、自民党を堂々たる改革保守の政党にし、参議院を真の意味での『良識の府』に導き、わが国を『世界のモデル国』にする好機」、
その思いを固めて挑戦することにしました。
-今後は主に、どのような主張をされていきますか?
わが国の人口急減に終止符をうつことは、どうしても道筋をつけたいと考えております。
経済、財政、社会保障など、わが国の全ての問題の根源は、人口問題にあります。国民全体で「子供をもつ喜び」が共有され、国を挙げて「子供を産み、育てやすい社会」に劇的に変化し、「子供がふえる国・日本」へと転換しなければなりません。しかし、票になりにくいこのテーマに命がけで取り組んでいる政治家は、残念ながら見当たりません。私は杉並区長時代、全国でも最悪に近かった出生率を引き上げた実績があり、ぜひとも今、先頭に立って取り組みたいと思っています。
-最後にもう一度、想いを述べて頂けますか?
27歳で都議会に初当選にしてから、私の政治家としての人生も30年。特に、「杉並区を日本のモデルに」の一念で16年前に杉並区長に就任し、11年間にわたって「杉並改革」に取り組み、財政再建や教育改革などの成果を上げて参りました。
その間私は、「皆さんに喜んでもらいたい」の一心で、政治家という与えられた職業に誇りをもって向き合ってきました。そして、すべての人びとにできるだけ多様な「道」を拓き続けていくことこそ、「職業、政治家。山田宏」の天命と考え、それを現実の政治の中で形にしてきました。
政治の流れを変えるには、私の様な特定の利益団体とは関わりのない政治家が、一人でも多く議席を占める必要があります。参議院こそ、その舞台です。「日本を世界のモデルに!」、この10年の間で日本を生まれ変わらせます。私、山田宏がその先頭に立つことを、ここにお約束します。
-ありがとうございました。山田さんの新たな決意を伺って参りました。
(後援会会報より抜粋)