理念なき国家からの脱却――杉並区長 山田宏 文:高久 多美男
これからの国造りの教書とも言うべき本
砂漠を何日も彷徨い歩き、カラカラに喉が乾ききっている状況の下、オアシスを見つけた時の歓喜にも匹敵すると言えば大げさに聞こえるかもしれない。山田宏著『「日本よい国」構想』を読んだ時の感銘は、それほどに衝撃的だった。まさに私たちはこういうものを待望していたのだ、と合点がいった。これで日本は三流国になるのを阻止できるかもしれない、愛すべき日本人同胞が辛酸を舐めることを余儀なくされる事態にならないですむかもしれない、と一条の光を見る思いがした。 直後、腑の奥底からジワジワとエネルギーがわき起こってくるのを感じることができた。人は希望を見いだした時、力が充填されるようにできているのだ。そして、これをまとめた山田宏という政治家はいかなる人物だろうと俄然興味がわいてきた。実行力があり、杉並区改革は全国的にも高い評価を受けているということは知っていた。優れた人材が多い松下政経塾門下生の中でもとりわけ人望が厚い…など多くの評判を聞いていた。テレビでも見たことがあるし、著書もいくつか読んだことがある。
しかし、そういった諸々の情報だけで満足できるものではなかった。そのような折、本誌が創刊されることになったのは、まさしく僥倖以外のなにものでもない。このようにして、氏の理念について詳しく聞くことができ、誌面で紹介できるのだから。
艱難に直面する時だけ、理念が作られる
日本の近代史において、国家の理念が明確に掲げられたのは二度だけだと私は思っている。元来、農耕民族であるだけに、危機意識が乏しいのだろう。日本人はよほど切迫した状況にならないと自ら動こうとしない特質があるように思えてならない。二度というのは、明治維新後の富国強兵、そして太平洋戦争後の加工貿易立国である。明治初頭は弱肉強食の時代。国家としてヒナのような存在だった日本が西欧列強に飲み込まれないために、そうする以外になかった。そして、西洋人が驚くほど短期間に日本は世界の列強の仲間入りを果たした。
太平洋戦争直後はもっと凄まじかった。多くの優れた人材を失い、国土は焦土と化し、資源もなく食糧に乏しい日本がもはや再興することなどありえないと断じた西洋の日本専門家はたくさんいたという。
ところが日本はここでも力を発揮する。原料を輸入し、加工して付加価値をつけた後、輸出する。そういうことを国造りの基本にして約八千万人の日本人を食べさせようとしたのである。政治形態はもとより、税制、教育など、あらゆる制度をその基本理念に合わせて再興に一丸となった。その結果、奇跡的な復興がなされたのである。人類史上まれにみる繁栄を数十年間も享受し続けていることによって、この状況が当たり前のように思う人も多いだろうが、今の繁栄はおよそ五十五年前に掲げられた国家理念に負うところが大きいと認識すべきである。
しかしながら、欧米へのキャッチアップという大命題を果たした後、日本人は目標を失い、と同時に次の目標を定めることを怠ってしまった。経済合理性を追求し、国民の富を膨らませる過程で失ったものを回復させるためにどうすればいいか、あるいは今後日本はどのような国を目指すべきなのか、といった重要課題にまったく手をつけずに太平楽を決め込んでしまったのだ。このツケは年を経る毎に膨らんできた。
なぜ、無為無策であったのか。それは、危機感に乏しい、のんきな国民性であることに加え、政権交代がほとんどないという異常な状態によって、政治家たちが国の舵取りに関心を失ってしまったからではないか。目指すべき国家像を国民に示すことなく、政官財がこぞって既得権益を死守することにのみ腐心してきた結果、現在の日本は、日本人はこの体たらくになってしまった。
そのような状況下、山田氏のような救国の志を胸に抱いた人物の登場は誠に時宜を得ている。このような人物を国民は久しく待ち続けていたのである。
山田宏の知を啓いた偉人伝
山田が政治家になるまでの経緯を訊ねた。「もともと政治家になりたいという思いはまったくありませんでした。ただ、政治家になるための素地がどのようにして養われたのか、と言えば、子どもの頃、夢中になって読んだ伝記に行き着くでしょう。父から買ってもらった織田信長や豊臣秀吉など歴史上の偉人伝をむさぼり読みながら、自分と重ね合わせていました。のめりこみやすいタイプは今も同じです(笑)。おそらく子どもなりの上昇志向だったのでしょう」
家庭や学校など小さな世界に生きている子どもの意識がいきなり射程を伸ばすきっかけは、二つに大別されると思っている。一つは自然に触れること、もう一つは歴史上の偉人たちの業績を知ること。後者の媒介となるのは本か誰かの語り。小学二年生の山田宏は偉人伝を読むことによって、知的好奇心が啓かれていったのだ。
その後、政治の世界に興味を抱くきっかけとなったのは、ロッキード事件だったと言う。
「あの事件に対する世の中の反応は、一様に『けしからん』ということでしたが、私はあの時、責任を妻や秘書になすりつけて逃げまどう政治家の姿にひどく失望しました。結果的に悪いことであったとしても、国のためにやったというのであれば、どうしてそれを国民に説明しないのか、と」
当時、NHKの大河ドラマは『勝海舟』であった。山田はそれを見て、幕末にこんな人物がいたのかと興味を抱き、本屋へ走った。その時買ったのが勝海舟の『氷川清話』。口述筆記で著されたその本には、勝海舟の半生記と人生哲学が記されていた。曰く、人間が事を成すにあたり、最も大切なことは胆識である、と。自分は禅と剣道によって胆力を養い、広く世界を見ることによって識見を養った、だから暗殺を企む輩がいようとも意に介さない、と書かれていた。
「今から思えば、勝海舟特有の自慢話ですよ。しかし、当時の私は、幕末にはすごい人物がいたものだ。それにひきかえ今の政治家の体たらくはなんとしたことか、とひどく落胆しました。その時、私ははっきりと自分の目標を定めたのです。こういう人物になろう。日本には『人物』がいないからこういう状況になってしまったのであって、自分がひとかどの『人物』になることによって社会を変えたい、と」
転勤族だった父から、「サラリーマンにはなるな。弁護士を目指せ」と言われていたが、果たして弁護士となった自分が社会を良くする人物になれるかどうか確信をもてないでいた。次の転換点は、京都大学法学部に入って間もなくやってきた。
「憲法を学んだ時のことでした。この憲法は敗戦という革命によってできたものだとか明治憲法との断絶などと、まるで幻想のような話ばかり聞かされたのです。その時、虚実に基づいているものを学ぶ必要があるのか、と疑問に思い、一気に興味を失いました。入学して三ヶ月後です。そして、私は大学内で政治思想研究会というものを立ち上げました」
大学時代、山田宏の原形質はできあがったと言っていい。社会を変えていける「人物」になるとの理想を秘め、父が強く薦める弁護士の道にあっさりと見切りをつけ、大学が用意してきたカリキュラムも学ぶ意味なしと断定した。世の中の常識に沿って自動的に流されていくことに決然と異を唱えたのだ。
ただし、自分の思いが周囲のそれと同じとは限らない。
「当時はまだ学生運動の残り火がありました。大学をブロックしたり機動隊に石を投げたり、校舎を壊したり落書きしたりビラを散らかしたり。私は学生たちの怒りもわからないではないが、授業を受けたい生徒もいることを無視して無責任に授業を破壊している人たちにものすごい憤りを覚えていたのです。そして、全学集会の時、クラスの代表として学生運動に参加している学生たちに問いました。君たちにこんなことをする権利はあるのか。どうしてもやりたいのなら、やった後は現状復帰させるべきだ、と。
その翌々日、ウルトラライトの山田を糾弾しろ、というビラがあちこちで配られたのです。ある日、警察が下宿まで訪ねてきて、こういうビラがまかれているから気をつけた方がいいと忠告まで受けました。もちろん、それでひるむタイプではありません。叩かれると攻撃的になるのは今も同じです(笑)。それから左翼にも失望しました。もともとあまり期待はしていなかったのですが、もしかしたら正しいことなのかもしれないと思っていました。しかし、完全に幻滅しました。あまりにも自分勝手なまやかしの政治思想だと気づいてしまったのです。結果的に私の直感が正しかったということは後の共産主義の凋落ではっきりわかりました」
その頃を境にして山田の政治思想は保守路線に定まり、大学でも自由主義者の勝田吉太郎氏や国際政治学の高坂正堯氏のゼミをとるようになった。
子どもの頃、歴史上の偉人伝によって外の世界に刮目され、勝海舟の著書によって政治の世界に誘われ、そして大学での学生運動を反面教師として、知らず知らずのうちに山田の政治思想は固まってきたのである。
山田宏の志を見抜いた松下幸之助
弁護士になることを断念し、政治に興味を持ったとはいえ、そう簡単に自分が政治家になれるとは思わなかった。「政治家になるための、いわゆる”三バン“が当時の僕にはまったくありませんでした。父は転勤族だったので、私たち一家は旅ガラスのように日本のあちこちに移り住んでいましたから”地盤“と呼べるような活動基盤はありません。名声や立派な肩書きなどの”看板“もありません。加えて、父は言ってみれば労働者階級ですから”カバン“つまりお金などあるはずもありません。ずっと都営住宅など賃貸住宅に住んでいましたし、外食と言えば年に一回、クリスマスにカレーを食べた程度の記憶しかないようなつつましやかな家でした。そのような状況でしたから、とても自分が政治家になれるなど思ったこともありませんでした」
当時をそう述懐する山田。それほどにこの国では条件が揃わないと政治家になれない。志と能力があれば誰でも政治家になれるようなシステム作りが急がれる。
「保守系の政治家なら二世か官僚か秘書、革新系なら組合か新聞記者、それがほぼお定まりのルートでしたね」
いずれにもまったく縁のなかった山田だが、しかし、勉強は怠らなかった。十八歳の時、「自分は人物になる!」と決めた目標は、片時も揺るがなかった。
ある日、山田は新聞を見て、衝撃を受ける。大学三年生の時だった。松下政経塾というものが設立されるという趣意書が掲載されていたのだ。じっくり読み進むうち、この松下幸之助という人は自分がやりたかったことをやろうとしているではないか、と気づいた。
「当時の僕は松下幸之助が誰なのか知らなかったのです。それを読んで松下電器の創始者であるということがわかりました。目から鱗とはあの時のようなことを言うのでしょう。なるほど世の中には偉い人がいるものだ、自分はここに入ろう、と心に決めたのです」
親に内緒で願書を出した。一次、二次試験を通り、最終の面接試験を迎える前、塾側から、ゼミの教官の推薦状をもらってくるように、との通達を受けていた。山田は躊躇した。なぜなら、ゼミの教官・高坂正堯は松下政経塾の理事でもあったからだ。理事に便宜を図ってもらって試験に有利にするような真似はしたくなかったのだ。
やむなく高坂に事の成り行きを説明し、推薦状をいただきたいと言った。喜んで書いてくれると思っていたのだが、答えは案に相違して「やめとけ」だった。「五年間そこで学んでも食いはぐれるだけや。京大を出てもムダになるだけ。愛するゼミ生をそんな目に遭わせたくない」。
それでも、山田は食い下がった。自分がやりたい道はこれだ、と確信があったからだ。
結果的に高坂は五年の間に会計士の資格を取るということを条件に推薦状を書いてくれた。設立間もない松下政経塾は、当の理事からさえ「海のものとも山のものともわからない」という程度にしか思われていなかったのだろう。
さて、面接の日を迎えた。相手は松下幸之助を中央に、塾頭の久門泰、役員の江口克彦(現PHP総合研究所社長)など五人が前に並んで座っていた。
さまざまな質問を受けている間、松下幸之助は一言も発せず、表情もまったく変えず、手にした書類に○とか×をつけるだけ。
最後に江口が「塾長、いかがでしょうか」と松下に振った。山田は緊張した面もちで言葉を待っていたが、「君、酒は飲むのか」が最初の質問だった。肩すかしにあったような気分だった。
「飲みます」「どれくらい飲むんや」「けっこう好きですのでたくさん飲みます」「そうか、で、どんな酒なんや」と問答は続く。
「どんな、と申しますと?」山田は真意がわからず、逆質問をした。「楽しい酒かどうかと訊いておるんや。君、歌を歌ったり芸とかするんか」「ええ、ラグビー部ですから(理由になっていない)」「じゃあ、楽しい酒なんやな」「はい」「じゃあ、ええわ」。
次に、「君に彼女はおるんか」と訊かれた時、山田は「酒の次は彼女の話か、もう結果は決まってしまい、これは時間かせぎかもしれない」と頭に不安がよぎった。
「います」と答えると、「寮生活は五年間あるんやけど、君、我慢できるか」と返された。この時も真意がわからなかったが、「はい」と答えた。
最後に、「君は何になりたいんや」と問うてきた。それが核心だったのだろう。
「まだ決めていませんが、政治を変えたいと思います」山田はそう答えた。「どうやって変えるんや」「政治運動をして変えたいと思います」「 政治家にはならんのか」。ここで山田は三バンのいずれもないことを説明した。
「それも道理やが、君、ここに入れたら政治家になれるで」松下幸之助はそう断言した。この時、松下は”人物になりたい、政治に関わり社会を良くしたい“と内に秘めた青年の志をすでに見抜いていたのだろう。その言葉通り、山田は二期生として入塾を果たし、四年後、塾を後にして政治家になる。
ところで、松下に「我慢できるか」と訊かれて「はい」と答えた山田だが、塾生時代に結婚し、長男も生まれた。「君、えらい早いやないかって皮肉を込めて松下塾長に言われましたよ」と言って山田は快活に笑った。
優柔不断を窘めた松下幸之助の言葉
父の猛反対を押し切って意気揚々と松下政経塾に入ったが、講義内容には困惑の色を隠すことができなかった。国家有為の人材を育成するための機関なのだから、かなり厳しい授業になることも覚悟していたが、カリキュラムは無きに等しい。研修方針の通り「自修自得」「現場主義」、つまり自分で学びたいテーマを見つけ、自分で学びなさいということだった。「これには正直参りましたね。それまではある意味で飼い慣らされた豚のようにただ従っていれば餌を与えてもらえたのに、いきなり自分で餌を探してこい、というようなものですから」
官僚を養成するのであれば、どんどん難しいテーマを課して、英才教育を施すのもいい。しかし、国を動かすほどの政治家や経済人を育成するとなると話は違う。松下幸之助は、そのことの真理を透徹していたのだろう。課題山積の世の中をつぶさに見て、どれが世の中を変えるポイントになるかを自分の感性で見極め、その答えを得るために自らの知恵と手足を使いなさい、ということなのだ。今、政経塾の研修方針を知り、あらためて松下幸之助の巨きさを思い知らされるのである。
「月に一度の松下幸之助の講義はとても面白かったのですが、時々学者や役人を招聘して行われる講義は大方は退屈でした」
当時の山田ははやる気持ちもあったのだろう。何度も松下に新党を作るよう直訴している。政経塾の理念には賛同するも、あまりに巧遅に過ぎると思ったのだった。
しかし、松下の答えはいつも同じだった。「まずは人間を学ぶことが先や。人間の本質をつかむことが先や」
こらえきれず、山田は同僚の仲間たちと給料の三分の一くらいのお金を出し合い、赤坂のある会議室に事務所を構えて政策の勉強会を立ち上げた。政治を学ぶには地の利がある赤坂で政治を学び、同志を糾合しようと思ったのだ。
ところが、このことが塾頭に知れ、怒りをかった。「どうしても続けたいのなら退塾してからやってくれ」。山田たちは時期尚早と判断し、事務所をたたんだ。
このエピソードには後日談がある。
後年、PHP研究所の江口克彦から、松下も最後の頃は本気で新党構想を描いていたということを聞いた。その時、松下は以前、塾生から新党を作っていただきたいと何度も決起を促されたが、あの若者(山田のこと)は今、何をしとるんやろ、と訊かれたので、赤坂の事務所の顛末を話したと江口は言った。すると松下はこう言ったという。
「そのような程度の志ではあかんな。考えてみ、噺家になるにしても一度師匠と決めたら何をされても這いつくばってでもやり通すやろ。しかし、一度自分でやると決めたことを二度や三度文句を言われたからといってすごすごと退散するようでは立派なことはできんわ。まして新党やろ。彼もそこまでで終わりやな」
それを聞いた時、山田は血の引くような思いをした。なんと自分の志は脆弱だったのだろう。たしかに松下幸之助が言った通りだと思った。
「それ以来、その言葉はずっと私のトラウマになっています」
松下幸之助は、その言葉が山田本人に伝わることを意図していたのだろうか。事実はわからないが、山田の信念をより強固なものにする役割を果たしたことだけはまちがいない。
一所懸命にやる姿を必ず誰かが見ている
入塾して四年目のことだった。ある朝、全塾生を集めて塾頭が言った。次の都議選に河野洋平率いる新自由クラブから立候補したい人はいるか、と。何人か挙手したが、山田はそうしなかった。結婚して間もなく、子どもはまだ〇歳。妻の同意が得られるとは思わなかったからだ。ある日、河野洋平から直接自宅に電話があった。一度、会いたい、と。そして、河野から直に次の都議選に立候補してほしいと伝えられた。それでも山田は断った。
その一ヶ月後、再び河野から電話があり、また会うことになった。再び立候補を促されたが、今度も山田は断った。
しかし、政党のリーダーが自ら二度も会いに来てくれたことに心が揺るがないわけにはいかなかった。山田は同期の塾生に相談した。友人の答えは、明瞭だった。「おまえには勢いがある、いいじゃないか、せっかくのチャンスなんだから、それをつかめ」。
それで心は決まった。都議選に立候補し、見事当選するのである。
「あの時、ふと河野さんはどうして僕のことを知ったのだろうかと思いました。結局、人は一所懸命に何かをやり続けていれば、目先の目標は達成されなくても、その姿を誰かが見ていて、道をつけてくれるということを身をもって知りました」
一心不乱に何かをやり続けている人を見て、人は放っておけない。山田は人間の真理をまたひとつ学んだ。あらゆる体験を自分の血肉にする智勇と謙虚さをもっているのである。
順風満帆の後の挫折
塾生時代、赤坂に事務所を借り、政策の勉強を始めたが、塾頭に窘められて止めたことはすでに書いた。自分の意志で前へ進もうと思っていたが、退却を余儀なくされたと解釈していい。一方、自分からは何もせずともチャンスが転がり込んできて、当時最年少の二十七歳で都議選に初出馬し、当選を果たしてしまった。 その二つの出来事を山田はこう総括する。
「最初の方は自分に邪念があったと思います。自分や同僚たちがてっとり早く政治家になるためには新党を作ることが早道だ、と。それで赤坂に事務所を構えたり、松下さんに新党を作って欲しいとたきつけた。でも、それは自分がこうなりたいという欲が先に出ている、いわば私利私欲です。だから、窘められたら簡単に止めてしまった。自分が大事だから。しかし、後の方は違っていたのでしょう。僕が一所懸命になっている姿を誰かが見ていてくれたから結果的に政治家になれたのです。やはり、物事は私利私欲が先に出ては事態を変えることはできないということを学ぶことができたのです」
そして、山田は二期目を務めた後、細川護煕率いる日本新党に参加して衆議院議員選挙に立候補し、国会議員となる。三十五歳の時だった。それまではまさに順風満帆、自分が思い描いた通りのコースを歩いてきた。
ところが試練を課される。二度目の選挙で落選するのだ。
そのまま追い風を受けたままであったのなら、今の山田宏はあっただろうか。
「たぶん、それはなかったでしょう」と山田は答える。
「今、振り返ると、それまでの私は嫌な人間でした。傲っていました。のぼせていました。ひっぱりだこになっている自分に酔っていたのです。それでいて充電しないで放電ばかりしているから自分に自信が持てない。忙しさにかまけて物事を深く考えていないから言葉が空虚でからまわりしている。だから焦る。何が正しいか、で自分は動く人間でありたいと思っていたのに、自分の原点を失っていたのです。日々、その時を上手に生きているだけ。日本を変えるという美名の下にどんどん大事なものから遊離していたことに気づかなかったのです。そのことをもう一度考え直すきっかけになったのが落選でした」
落選と同時にまるで引き潮のように支持者が去っていったという。さながらバルザックの小説のようだ。人間には、そういうあさましさがある。それを思い知らされた。失ったのは支持者だけではない。活動資金も入ってこなくなってしまった。前年の収入を基に課税される多額の住民税が払えず、区役所に行って頭を下げて延滞や分納の処置をしてもらった。いよいよ打つ手がなくなってサラ金を借りたこともある。貧すれば鈍するで、友人の誘いにのって先物取引に手を出し、わずか半月で多額の損を出してしまった。まさに最悪の事態に見舞われてしまったのだ。
「その時、自分はどうしてこんなことになってしまったのだろう、何のために政治家になり、何のために生きているのか、なんで自分は日本人なんだろうというような物事の本質について考えるようになったのです」
窮状に直面して、ジタバタせず、沈思黙考することを選んだのだ。それがその後の山田の心根と骨組みを強固なものにした。
「その頃ですね、自分の天分に気づいたのは。物事を根元的に考え、その中から正しさを見つけていくことこそ、自分の特色だとわかったのです。それを自信をもってみんなに語れば、必ず伝わる。物事の本質を突き止め、それを広めていこう、それこそ自分の天分だと思えるようになったのです。それからはすごく強くなれたような気がします。お金や肩書きなんかなくても尊い仕事ができるのです」
『「日本よい国」構想』には、何度も「天分」という言葉が出てくる。人は誰も自分だけの天分をもっているということ。そのことを山田自身が知ったのは、まさしく最悪の状態の時だったのである。
実は同じだった「日本を良くする」という道
失業時代の山田は考えてばかりいたわけではない。さまざまな本や雑誌、新聞を読み、感銘を受ければ手紙を記し、叶うならば会いに行って話を聞いた。物事を深く考え、たどりついた答えが正しいかどうか確認するためにも有効なことだった。もし、落選することなく以前と変わりなく日々忙殺されていたら、とうていできないことだった。そういうことを繰り返している時、支持者である若い経営者から、来年行われる杉並区長選に出馬してはどうかと促された。
杉並区? それまで地方自治体の首長選など考えたこともなかった。いずれ国政に戻ることばかり考えていたので、むしろ地方首長選に自分の名が挙がることはマイナスだとさえ思った。
しかし、その考え方はある年輩の婦人からの手紙によって覆された。││あなたが国政に関心があることはわかる。だが、国会でなければできないわけではない。杉並区でモデルを作り、それを全国に伝播させるのも日本を良くするための道ではないか。富士山の登山口が違うだけで、目指す頂は同じ。縁のある道から登った方がいい、とその手紙には記されていた。
それまで山田は国政の山と地方自治の山は異なるものだと思っていた。しかし、実は同じものかもしれないと思い始めた。
山田宏の政治手法が端的にわかるレジ袋税
一九九九年、現職に勝って杉並区長に就いた山田は、就任早々、さまざまなことに手をつけた。手をつけるということは、それまでのやり方を変えるということだ。つまり、それによって何らかの不都合が生じると思う人の多くは、その改革に異を唱えることになる。制度を変えるには、そういう反対者を説得しなければならない。その際、山田はどのような方法をとるか。その一点に政治家としての山田宏の真骨頂を見ることができる。根回しも小細工もなし。正面から正論でぶつかる。こういうことができる政治家は、全国でもごく少数だ。全国初の試みとなったレジ袋税導入を例にとって山田流を見てみよう。
山田がその構想を発表したのは区長就任翌年の秋。その背景には、不燃ゴミの焼却が原因と見られる「杉並病」があったが、それと同時に、山田はスーパーやコンビニなどで無料で配るレジ袋に日本人の生活習慣を変えるカギがあると見ていた。もともと原価のかかっている物をタダでもらうという考え方は、物を大切にしてきた日本人の伝統に反するシンボリックな習慣と見ていたのだ。
山田の構想に対して、商店街、議会、住民がこぞって猛反発した。商店街の言い分としては、今までタダで配っていたレジ袋を有料にしたら、客が逃げるということ。特に区境の商店は隣接する区にある商店に客をとられてしまうと危惧していた。消費者である住民も、今までタダでもらえる物にお金を払うのは嫌だと反発した。有権者の利得を代弁する議会が反対一色になるのは容易に想像できる。
「都のホテル税が提案されて成立するまでに要した日数は一週間、河口湖の入漁税は一日、しかし、杉並のレジ袋税は条例化まで一年半かかりました。なぜなら、ホテル税も入漁税も外から来た人に課す税金です。しかし、レジ袋税は自分たちに課す税金。反発が大きいのは当たり前です。
かなり議論を尽くした後、私は地元商店街の役員約八十人が集まる会合に出席しました。そこで結論を出そうと思ったのです。相手は全員反対です。あらためてその人たちに意見を聞いた後、私はこう言いました。
『皆さんのお気持ちはわかります。もし私が商売をしていれば、同じようなことを言ったかもしれません。ただ、最後に質問させてください。その答えによって私が納得できれば、この条例案は即座に撤回します。
このままレジ袋をタダで配ることが商いの道として正しいのでしょうか。タダで配ることは私たちの社会を良くしていく道でしょうか』。その直後、しーんと静まり返りました。そのうち、コンビニ経営をしている若い人が発言したのです。
『実はコンビニを経営していて、そのことはずっと疑問に思っていました。ガム一個買ったお客さんにもレジ袋をあげる。外へ出れば、明らかに私たちがタダであげたビニール袋が捨てられてゴミとなっている。正しい道かと訊かれれば、正直、正しいとは思えません。いつかはやめなければいけないことと思っていました』
勇気ある発言でした。それからその場の空気が変わってきて、最後は条例化に同意していただきました。そして、私は、こう付け加えたのです。税の条例は議会を通してもらいます。ただし、皆さんの創意工夫によって五年以内にマイバッグ持参率が現在の一五%から六〇%に上がれば、この条例は施行しません。
この時の教訓はたくさんありました。人を説得するにあたり、損得で言ってはいけないということです。どんなルールも誰かが得して誰かが損をする。ですから損得だけで説得しようとしたら永遠に決まりません。自分たちはいかに生きるのか、いかなるものが幸せか、そういう根本的なテーマなくして政策の遂行は不可能なのです」
たしかにそうである。今議論されている税や年金などの重要課題についても同じことが言える。政治家も国民も損得でしか議論していない。どういう社会のあり方が正しい道なのか、という基準で議論をしているケースは皆無に等しい。なぜなら、政治家は有権者の票が欲しいという私利によって動いているし、そのことを見透かしている国民は国や自治体に依存するばかりだから。
杉並区以外にも目を向ける視野の広さ
自分たちが住む地域さえ良ければいい、と考える自治体の首長がたくさんいる中で、山田の視野の広さは特筆に値する。例えばこういうエピソードがある
ある学習教材の大手企業Gが中国の圧力を受け、日本領土である尖閣諸島を「釣魚島」(中国領)と表記した地球儀を作った。そのことをインターネットで知った山田は区の幹部を呼んでこう言った。
「区内の小・中学校で今後、G社の副教材などを購入しないようにしたい。明日にも記者会見をするので準備してください」
山田によれば、国家主権の根幹に関わる国名の表記を目先の利益にかられて圧力に屈するなど言語道断。そういう反社会的な企業に区民から集めた大切な税金を使うことは道義上許されないという見解なのである。
「諺に曰く、一年の謀は殻を植ゆるに在り、十年の謀は木を植ゆるに在り、百年の謀は人を植ゆるにあり、と新島襄が言いました。教育とはまさに国家百年の計であって、外圧に屈するのはむろんのこと、時々の国内世論によって左右されるべきではないのです」
外務省や文部科学省の事なかれ主義は目にあまるものがあるが、大臣や役人にとくと聞かせたい言葉である。
命をかけるためのバイブル
いよいよ本題の『「日本よい国」構想』について触れたい。山田は三期という任期制限を条例化しているので、最大十二年で任期が終わる(ちなみに任期制限条例は他の自治体でもあるが、自分以外にも該当させる条例としては全国唯一である)。杉並区長としての任期をあと三年に控えた二〇〇八年初頭、それまでの十年近くを総括する意味でも、あるいはこれから自分が目指すべき形を明白にする意味でも、こういう姿でありたいという国家のモデルを整理しておこうと思った。
まず、その時考えたことは、それまでの五十年の人生はトレーニングだった、自分の本番はまさしくこれからだ、ということ。
その間、日本はますますひどくなっている。政界、財界、教育界、あらゆる分野で人材が払底し、目先の問題解決に汲々としている。自分たち日本人の目指すべき道はいかなるものか、国民に示すような政治家はほとんどいない。政治家は党利党略、官僚は省益、経済界は自社の利益、そして国民一人ひとりも自分の利益に意識を奪われているからだ。その場しのぎの対症療法的な政策の積み重ねと詭弁、便法の数々。年金の記録問題に代表される役人の退廃、食物偽装事件に代表される企業経営者のモラルの低下、そして振り込め詐欺に代表される拝金主義…。誰も政治家を信用しなくなり、政治家も国民を信用しなくなってしまった。そのような状況にあって、長期的な展望にたった国家の理想像など描かれるべくもない。
「これから残りの人生において、命をかけられるテーマを明白にすべく、自分のバイブルを自分で作ろうと思ったのです。これを基本にしてこれからの大本番に臨もうという決意のもと、渾身の力でまとめ上げました」
途中、志を同じくする中田宏ら山田の理念を共有する同志が数人参画し、この本の進捗に弾みがついた。そして、二〇〇九年二月、ついに上梓に至ったのである。
「これをまとめたことによって、初めてスッキリしました。自分はこのために生きよう。偉くなるとか権力を握るとか名声を得るなどどうでもいいこと。自分はどうなってもいいのです。こういう世の中が実現されれば。心の底からそう思えるような理念をまとめることができたのは、同志たちのおかげでもあります」
この記事の冒頭にも書いたように、この本は多くの心ある国民が待望してやまなかった、これからの国造りの教書でもあると私は信じている。もし、この本を読んで心を動かされないとしたら、自分の感性や価値観を疑っていい。それほどに崇高で広く遍く通用する理念だと言える。
コンテンツ
この本は大きく五章に分けられていて、最後に具体的な政策方針がいくつか書かれている。
●第一章 人間の幸せを考える
●第二章 「自由」と「責任」と「相互尊重」
●第三章 誇るべき国、日本
●第四章 なぜ「私たちの幸福」が実現されないのか
●第五章 「豊かで、楽しく、力強い国」となるために 以上の五つである。
第一章 人間の幸せを考える
本書が他の政治家によって書かれた本と一線を画しているのは、特に第一章の存在である。人間とはどういう生き物なのか、なぜ存在するのか、どういう時に幸せと感じるのか、人それぞれにある「天分」とは何か、など、人間として存在することの哲学的考察を越え、真理の探究にまで及んでいる。
哲学とは、人生の根本問題を理性的に究明しようとすること。真理とは、その物事に関して例外なくあてはまり、それ以外には考えられないとされること。
あらためて説明するまでもなく、政治とはそこに帰属する人たちが幸せな生活を送り、その人たちで構成する社会がより良きものに向かうための制度設計をすること。であれば、人間にとっていったい何が幸せかを掴んでいなければ、目的を完遂することはできない。明治初期は列強に侵略されない強固な国家建設がテーマであったし、太平洋戦争後はすべての国民が衣食住足りて、さらには経済的に上昇し続けることであった。
物質的には満たされたが、不幸だと感じている人が多いというのは、まぎれもなく現代日本の姿である。GDPならぬGDH(国民総幸福度)という指標があるが、案の定日本は最低クラスだという(ちなみに一位はベルギー。切手などわずかな商品しか外貨獲得の手段がないブータンも上位に入っている)。毎年三万人以上もの自殺者がいる国が幸せな国とはとうてい言い切れないだろう。もし、経済的に成功することが幸福につながっているということであれば、宝くじで大金持ちになった人や起業して上場し、創業者利得を得た人は幸せになっているはずだが、どうやらそう簡単な話ではなさそうだ。お金で何でも買えるとうそぶいたIT起業家は今でも多くのお金を持っていると思うが、失礼ながらどの角度から見ても幸せそうには見えない。
山田は、まず人間とは何か、という最も難解な入口から切り込んでいった。政治家として非常に勇敢な挑戦だったと思う。
まず「人間とはどのようなものか」という人間観と、「日本とはどのような国か」という国家観・歴史観を考えなければなりません。正しい人間観と国家観・歴史観がなければ、何が人間の幸せで、その幸せを実現するために国はどうあるべきか、ということが見えてこないからです。
山田は本のまえがきにそう書いている。
次に本文へ進み、「人間にはそれぞれ天分があり、それを活かすことが人間としての成功であり、人間としての成功を全うすることが幸福と繁栄の源である」という主旨の松下幸之助の文章をひいて、その真意を説明し、「人間の幸福とは、誇りをもって、自らの天分を他者のために活かすこと」であると結論づけている。
第二章 「自由」と「責任」と「相互尊重」
誇りをもって、自らの天分を活かしきるために必要なものとして、自由、責任、相互尊重の三つをあげている。自由の大切さについてはあらためて述べるまでもないだろう。現在、世界には自由が制限された国が少なからずある。そういう国において、自らの天分を活かすことは至難の業と言う以外ない。
しかし、戦後の日本のように自由だけが拡大解釈されて一人歩きしている状況も多くの弊害をもたらす。山田は放縦な自由が、結果的に自由を阻害するというパラドクスを見抜いている。また責任意識は誇りの源でもあると喝破している。つまり、現代の日本人に誇りがないのは責任意識が希薄だということなのだ。
そして、もう一つ重要な要素として相互尊重をあげる。
弱者へのいたわりの心を大事にする「慈しみ」の社会をつくらなければ、本当の意味での自由も競争も成り立ちません。
自由競争と慈しみの心はセットなのである。
第三章 誇るべき国、日本
客観的に見ても、あるいは多くの国からも日本はよい国として高く評価されているが、終戦直後のGHQの政策や戦後の教育によって、日本には自分たちの国をよい国だと認識するのを妨げている風潮があると山田は言う。
「もし、あなたの先祖は悪いことばかりしてきた、誰からも尊敬されていないし、信用もされない罪人だったと言われたら、ほとんどの人は自暴自棄になるか、『どうせ…』という気持ちになってろくなことはしないでしょう。それと同じです。今、最も必要なことは、日本人としての誇りを醸成することです。もともと素晴らしい国なのですから、日本のよさをきちんと知ればおのずと誇りをもてるようになります」
山田は本書で、日本の核は私欲・権力欲の及ばない美しい歴史の流れを体現した天皇の権威であり、日本人の特質は、衆知を集める、主座を保つ、和を貴ぶの三つであり、昔は最も貧しい人でもそれらの特質を備えていたと説いている。その上で、日本の天分をさらに輝かせるために、それをいかに世界のために活かすかということを深く思い定めるべきだと続けている。
幕末の開国とは逆の、いいものを世界に広めるという第二の開国をすべきだというのだ。
第四章 なぜ「私たちの幸福」が実現されないのか
理想を掲げた後は現状認識である。たしかに今の日本には国民が幸せになることを妨げている要素がある。歴史からの断絶や「家」の解体など、具体例をあげて詳細に説明している。第一章から第三章まで続けて読めば、それと正反対の進路をとる日本の現状に問題があるのは明らか。それらを踏まえているからこそ、「国民の幸福」が実現されない理由が明瞭にわかる。
第五章 「豊かで、楽しく、力強い国」となるために
最終章では「新しい国のかたち」をつくる、「減税・繁栄国家」構想、「いのちの大国」構想という三つの視点から、フラットな税率の減税構想など、具体的に踏み込んだ提言をしている。
紙面が尽きてしまったので詳しいことは省くが、全五章を読み終えた時、あなたの心は必ず暖かくなっているだろう。人間にとって希望を抱くということがいかに大切なことか痛感するはずである。
これからの国造りの教書とも言うべき本
では、日本をよくするためにどのような政治家を選べばいいのだろうか。「ほとんどの政治家は立派なことを言います。しかし、ここがいけないのですが、『だから私を当選させてほしい』と続ける。たしかにロジックとしては破綻がありません。政治家でなければできないことはたくさんありますから。しかし、そういった意識が行きすぎた結果、当選するという「手段」が「目的化」してしまっているのです。だから、当選するためだけの主張をする。それを国民に見抜かれているにもかかわらず。
私はこういう時代だからこそ、政治家は勇気をもって自分の本当の信念を語るべきだと思います。当落は関係ない、自分は社会をよくするためになんとしてもこれをやりたいんだ! と訴える政治家になるべきだし、国民もそういう人を選ぶべきです。それが政治を変える第一歩です」
まさしく山田宏という政治家はそういう人だ。自分の信念に従って政治活動を続けている。それで落選してしまうのなら自分の力量不足だと受け入れられる度量を備えている。だから、なにものをも恐れず自分の信念に従うことができる。
「世界の趨勢に合わせればいいという考え方も蔓延していますが、それは敗北主義というもの。いいものはいい、正しいものは正しい、と主張してこそ相互信頼に基づいた国際関係を築くことができるのです。そういう気概なくして真の誇りある人間にはなれません。靖国神社の問題も歴史教科書問題も独立国家としてポジティブに処理されなければ日本はこのままズルズルと堕ちていくだけです。この二、三年が勝負ですよ。世界に誇る一文明国としてきちんと立てるかどうか、今その岐路にあると思います」
ついに山、動くか
山田宏に私利私欲がないことはくどいほどに書いたが、そうはいっても未曾有の危機に直面し、周囲は放っておかないようだ。こうしてこの記事を書いているうちに、懇意にしている知人から、「山田宏に決起をうながす会」の発起人になったという知らせが届いた。平成二十四年までに会員を五万人に増やし、山田に働きかけていくという。国家衰退の危機に直面し、これを解決できる人物は自民党にも民主党にも、いわんやそれ以外の政党にも見あたらない、山田宏をおいて他にいない、という切実な思いで山田に決起をうながすというのだ。いよいよ山は動き始めたか、率直にそう思った。この数年、政治はますます混迷の色を濃くするだろう。リーダーシップの欠如にともない、重要な案件は解決されず、国は疲弊の一途をたどるはずだ。産みの苦しみが終わるまでは。
しかしながら、解毒と同じように、必ずや日本国民は賢明な選択をすると信じている。山田が言うように、「長い目で見れば、衆知は正しい」のだから。